父とハンチントン病①
このことを書き始めるには勇気が必要だった。
なぜなら、書いたところで見えるのは絶望しか無かったから。
あまりにも知名度が低く、発信してみたところで誰も知らないだろうと思い、父は難病だと書いたきりだった。
しかし、私は医療の進歩を見逃していた。
それに、私はこのブログを通して自分自身と向き合う時間を得ることができた。
そんなブログを書いているのに、父の病気のことを避けて記事の更新を終わらせるわけにはいかない。
この病気は、私の今後の生き方にも大きな影響を与えている。
改めて事実と向き合う日がやって来たのだ。
私が物心ついたとき、既に父は変だった。
まあ私自身はそういう父の姿しか知らないので、何が変なのかと言われれば今でもよく分からない。
一般的な表現を借りるなら、
・不随意運動(自分の意思とは関係なく、勝手に体が動く)が寝ているとき以外は常に起こる
・精神症状(うつ、怒りっぽいなど)が見られる
・脳が委縮するため認知症とほぼ同じ状態になる
代表的な症状を挙げれば、こんな感じだろうか。
最終的には寝たきりになって、誤嚥など病気自体の進行ではなくそれに伴う何かで死んでしまう。(食事中むせやすくなるのも初期の症状の一つ)
これこそが、私の父が持つ難病「ハンチントン病」だ。
さらに、この病気は根本的な治療法がない。
病気の進行を抑える薬はあるが、病気自体を完治させることは不可能だ。
なぜなら、この病気は遺伝子(DNA)のある部分が異常な状態になることで発症するものだから。
詳しく言うと難しくなるので省略するが、簡単に言えば、人間の持つ46本の染色体のうちある1本が異常に長くなることが原因で起こる。
単純に考えれば、この異常に長い染色体を普通の長さに戻せれば病気を治療できるのだが、今の医療技術では生きている人間の染色体に何らかの治療を施すのは不可能だ。
だから、この病気の治療法は存在しない。
国指定の難病にもなっているのだ。
この病気を発症する年齢として、多いのは30代から40代くらいの中年である。
まれに10代など若い年齢で発症することもあり、その場合は病気の進行が早く重症化しやすい。
逆に言えば、60代など高齢になればなるほど症状の進行は遅く、あまり症状が出ないこともあるらしい。
基本的に、この病気は進行する速度が非常に遅い。
中年で発症した一般的な患者の場合、発症してから死ぬまでに10年から20年くらいの時間が経っていることが多い。
ハンチントン病は非常にゆっくりと患者たちの体を蝕んでいくのだ。
だから、本人の負担はもちろんだがそれを介護する家族の負担も大きい。
特に、中年で発症した人だと結婚して子供もできてさあこれから!という時に完全に人生計画が狂ってしまう。
(実は、子供にとってはそれ以上に重大な問題が潜んでいるが、このことについては後述する)
父の様子がおかしくなったのは、おそらくハンチントン病の発症時期としては最も多いであろう30代後半くらいの時だったと思う。
父は37歳で結婚し同じ年に私が生まれた頃から、40歳くらいで家を買う時くらいまでに発症した。
最初は物をよく落とすとか、怒りっぽくなるとかいう些細な症状から始まったらしい。
そのうち、ずっと働いていた仕事現場でも仕事が上手くできなくなって、リーマンショックが重なった時期にクビを切られた。
転職しようとしても、求人内容が分からず覚えられず結局職には就けなかった。
当時母は専業主婦で、収入は一気に無くなった。
私が今まで書いてきた貧しい家の暮らしは、ここから始まったのである。
このくらいの時期に父と母は病院に行ってハンチントン病の診断を受けていたはずだが、私はまだ幼稚園児だったので具体的なことはあまり分からない。
難病の父を抱え、私は発達障害の影響が残る中で小学生になった。
この間、父はまだハンチントン病の初期~中期に差し掛かったくらいでかなり危なっかしいが歩くことも出来ていた。
簡単な調理ならできたし、パンやインスタントラーメンをよく一人で食べていたと思う。
完全な介助は必要としない、いわば中途半端に症状が出ていて今みたいに長期入院させることも不可能だった。
障害者手帳と障害者年金をもらいながら、毎日食べるのが精いっぱいな経済状況の中で父を自宅介護するしかなかった。
とは言っても、私はまだ小学生だったのでほとんどすべての負担は母にかかっていた。
このころ出ていた症状を色々と挙げてみる。
まず、不随意運動。
起きている間はずっと動いている。
フラフラと踊るように動く感じで、まっすぐ歩くことはもちろん出来なかった。
私が10歳になるくらいまで、父はこの状態で散歩に出かけていたはずだがよく車に轢かれなかったなと思う。
認知症でもあったので、相当危なかったはずだ。
家の中では食事トイレ風呂以外の時間は寝転がっていたが、顔をしかめたり手先足先がよく動いていた。
家具にぶつかってあざができることなどしょっちゅうだったし、一度家の階段から転げ落ちて骨折してしまった。
その時は入院したが、入院先に父を運んでいくのも大変そうだった。
食事中は箸を使うのがとても難しそうだった。
食べ物は絶対に机の上にこぼれてしまう。
きれいに食事することが不可能だった。
とにかく勝手に動いてしまうので、トイレはまともにできないし風呂の中でも常に壁に当たっていた。
家具や風呂の中の器具など、家の様々なところが壊れてしまった。
また、常に掃除をしないと家が散乱して汚くなってしまう。
生活の様々なところで介護が必要だ。
それから、この不随意運動を一日中していると体力はかなり消耗する。
つまり、食べても食べてもどんどん瘦せてしまうのだ。
父はもともと太い方ではなかったが、ハンチントン病を発症してからはガリガリになってしまった。
ただでさえ貧しい生活なのに、父の食費だけはかさんでいった。
しかし、父の不随意運動は寝ている時だけ完全に収まっていた。
この父が寝ている時だけが、私たちにとって家の中で心休まる時だった。
だから、私は父の寝ている夜中に起きるようになった。
長期休み中は絶対に昼夜逆転生活をすると決めていた。
この悪い生活習慣が今でも染みついていて、なかなか抜け出すことができない。
次に、精神症状について。
これもよくある話なのだが、怒りっぽくなったようだ。
しかし、私はもともとの父の性格をよく知らないので分からないことが多い。
病気を発症する以前から亭主関白でろくな人でなかったとは聞いているので、私を小さい頃虐待して殺しかけたのも病気ばかりのせいにはできない。
どのみち父にとって私は不要な存在、それどころか邪魔な存在だったのだろう。
最後は認知症のこと。
この病気を発症すると、脳が委縮して認知症のような症状が出てしまう。
父の場合は、同じ行動をルーティン化して毎日繰り返すところが認知症と非常に似ていた。
先述の仕事ができなくなるのも、この脳の萎縮が原因の一つである。
また、病気が進行していくとコミュニケーションを取ることもできなくなる。
私は父とほとんど会話したことがない、と前にブログで書いたはずだが、それはこの病気による影響が大きい。
しかし、原因はこれだけではない。
自閉症が原因で私の発語が異常に遅く、やっと喋れるようになったころには入れ替わりのように父があまり喋らなくなっていた。
それに、もともと父は無口で亭主関白、私も仮に父が普通の人だったとして自分の性格上会話はあまりしないような気がする。
もともとの特殊な状況に加えて、認知症が追い打ちをかけた。
末期となった今は完全にコミュニケーションが取れない。
このように、父はある一点(次回に後述)を除けば典型的な病状をたどっている。
私が小学生の間、この状態がずっと続いていた。
少し状況が落ち着いた今、改めてこの状況を客観視してみるとかなりきつい環境に私たちはいたのだと思い知らされる。
特に私と母は、今思えばよく気が狂わなかったなとさえ思う。
いや、もしかしたら内心は狂っていたのかもしれない。
私に限って言えば、一番辛かったのは小学校6年生の時だ。
いろいろな世の中の現実が分かってくる中で、父の病状は悪化する一方だった。
半ば発狂しながら介護する母を見て、自殺する方法をよく考えていた。
今自殺しないとしても、これから先死にたいと思った時にどういう方法なら楽に死ねるのか…
そんな方法は無いのだが、ずっとこんな考えが頭をよぎっていた。
メンタルが強い(というか感情が無い)と自負している私でも、さすがに勉強までは気が回らなかった。
公立高校から難関大へのルートをたどる人の中には、小学生時代によく遊んでいたという人も多い。
しかし、私はこの間にメンタルを強くするための苦行を受けていたのだ。
中学校に入学してすぐの頃、父は私の家から離れることになった。
すぐ近くの祖母(父の母)の家に引き取られたのである。
この祖母と母は昔から仲が悪く、私はお互いの悪口を聞きながら育っていた。
いわゆる嫁姑問題が父のことに関しても勃発して、話し合いの結果こうなったのだ。
家の中にはしばらく平穏が訪れた。
しかしこのブログの「中2の手記」シリーズで書いたように、私の中学校生活はとても陰惨で何も楽しいことがなかった。
もちろん、小学生時代と比べても段違いにひどい。
家がマシになれば今度は学校が地獄になり、何もかも上手く行く人生は決して無いのだと思い知らされた。
2年ほどこの状態が続いたが、中3になる春のとき、いろいろな事情が重なって再び父が私の家に戻ってきた。
この2年の間に、父の病状は一気に悪化した。
それまでは何とか自力で歩いたり、食事をしたりトイレに行ったりできていたが、これらは全てできなくなって完全な寝たきりとなった。
一気に末期患者となってしまったのだ。
このまま全ての介護をしなければならない日が続くのかと親子で絶望したが、そんな日々は2か月ほどで終了した。
病院の手配が上手くいって、格安で父を長期入院させることになったのである。
これまでは病気の進行がそれほど進んでおらず、どこの病院にも入院を断られていた。
ハンチントン病患者は末期まで症状が進んではじめて長期入院できるのだ。
それからは、私の受験生生活も比較的安定した状態で進み、今通う高校に合格。
あれから何度か転院はしているが、一度も家に帰ってくることはなく高校生になり今に至る。
この間、私たちはようやくまともな精神を取り戻し、経済状況も少しだけ余裕ができた。
1年前からはコロナの影響で顔も見に行けていない状況だが、父は現在も寝たきりだという。
あれだけ元気に食べていたご飯も少し勢いが無くなった。
見舞いに行ったとき、私には一切反応せず母には少し反応していたのだが、今はその反応も薄い。
寿命はあと数年だろう。
これが父のハンチントン病と、それを間近で見てきた私の記録である。
しかし、ハンチントン病と接点のある方なら気付いていることがあるはず。
私はあえて、ハンチントン病について重大な要素を一つ書き漏らしている。
それは、
ハンチントン病は50%の確率で子に遺伝する
ということ。
次回は、この遺伝について子である私が向き合わなければならない事実について書いていく。
そして、私がつい最近まで見逃していたことや、ハンチントン病に関する希望についても文章にしていく。
最後に、私がこのような記事を執筆した真意も伝えたい。